彼女の首に食い込んだ延長コードがひきつりながら揺れていました。駿河菜穂は力の限り抵抗しましたから、わたしは彼女が首をかきむしらないよう、左の前腕で圧迫しながらコードを引き締めなければなりませんでした。布地が裂け、ワイシャツに血の粒が散りました。彼女のつま先が床を追いかけて、わたしの靴下を叩きながら幾度もちいさな弧を描きました。もちろん彼女の首は折れてもよいのですが、あまり不自然な角度の傷にはできません。駿河さんのうめき声が絶えるまで、二分ほど必要でした。わたしは今日ほど、日頃の運動不足を痛感したことはありません。
延長コードを扇風機から外して、カーテンレールに吊るしました。駿河さんは思いのほか体重が軽く、頚椎は自重で引き延ばされましたが、首の骨は折れませんでした。圧痕もどうにか痣になっていません。彼女は普段から、部屋を散らかし気味のひとでしたから、吹奏楽の賞状入り額縁と、テレビのわきにある本棚からこぼれた、巻数がとびとびの料理漫画を元の位置に戻すだけで、部屋はさほど不自然でない状態になりました。あと、首吊り自殺にみせかけるためにはなにが必要でしょう?
わたしはお風呂場から黄緑色の洗面ボウルを持ってきて、石鹸水で濡らしたタオルで、駿河さんの指を念入りに拭きました。特に、爪のなかに、わたしの腕をかきむしった細片が残らないよう気をつけました。それから、はたと困りました。駿河さんは背が低いので、彼女自身が首を吊ったようにみせかけるには台座が必要ですが、ちょうどいいものが部屋にないのです。座卓が高さとしてはぴったりですが、蹴飛ばしてぶら下がるためには、やや大きすぎるようです。苦肉の策として、キッチンの引き出しから無洗米の袋を持ってきて、彼女の足元に重ねてみました(「苦肉の策」ではなく、「苦米の策」と呼ぶべきでしょうか……笑)。偽物の遺書は必要でしょうか? 筆跡を残すわけにいきませんし、わたしはあまり文才にも恵まれていませんから、よしておくことにしました。
ひととおりの作業が終わったあと、わたしは206号室でしばらく泣きました。情けないやら、恥ずかしいやらで、頭のなかが一杯になってしまったのです。駿河さんはいつも、わたしにひどい恥をかかせて、わたしを怒らせ、わたしに彼女を殴らせました。女性すべてを愛しているわたしにとってみれば、彼女を殴らなければいけないのは、ひどく辛いことでした。が、わたしがなんど注意したところで、駿河さんは言うことを聞きません。あれは彼女の病気でした。ようやく病気が治ったのだと考えれば、これもプラス思考!で、彼女のためと言えるかもしれませんね。
もちろん、わたしは妻より駿河菜穂さんのほうをずっと愛していました。深雪は世界で一番ひどい妻で、わたしがいわゆる「浮気」をしているのも、深雪のせいです――つまり、実際のところは浮気とはいえないわけですが。わたしは生まれてこの方、女運に恵まれません。スキンケアをしたり、自分なりにフェミニズムの勉強をしたり、女性ファッション誌の「令和オフィスラブ最前線:愛され男子の「価値観激変期」に注意! 本命カレの「好き避け」を見抜く会話のポイントとは?」という記事を写経してみたり、ずいぶん研究を重ねてきたつもりです。当然ながら、付き合ってきた人数でいえば、会社のなかでも多いほうだと自負していますが、どんな女性も、わたしと交際してしばらくすると、突如として、残虐な本性を顕にするのです。この世の儚さは、まったくやりきれません。
わたしは座卓にのっている駿河さんのスマホを確認しました。ひどいワガママをいって、一方的にわたしを捨てた彼女は、喫茶店〈ストーナーズ〉を経営する佐々木悟郎という怪しげな若い男と付き合っていました。もちろん、謝罪のひとこともなく……。チャットのログを確認すると、
菜穂:またあいつが職場にきた
悟郎:ひどいね 最低
菜穂:無理しないでいいよ
悟郎:してないよ
悟郎:してないから
菜穂:もう死にたいの
菜穂:電話しちゃった 今日くるって
悟郎:死なないで
菜穂:死にたくないよ
悟郎:一緒に暮らせなくてごめんね
菜穂:うん
悟郎:仕事終わったら話聞くからね
悟郎:それまで待ってて
菜穂:待ってる
言うまでもなく、この会話だけを見ても、佐々木悟郎が彼女と付き合う資格がない事実は歴然としています。どうして、こんな下衆男が平気な顔でのさばっているのでしょう? つくづく、世の中がイヤになります……。わたしをスケープゴートにすることで、救世主ぶって、結局は女性の不安や弱みにつけ込んで、自分の性器をねじ込みたいだけなのです。大抵の男はそんなものですがね。わたしのような、真のフェミニストは少ないのが現実です。もちろん、佐々木が本当は自分のことしか考えていないのは、仕事を優先しているのがその証拠でしょう。わたしなら、真っ先に駿河さんを助けに向かいます! ひどい彼氏のせいで、駿河さんは無惨にも殺されてしまいました。もちろん、彼女が死んだのも彼女のせいですから、どちらにも人を見る目がなかったということですね。
とにかく、佐々木悟郎が〈ストーナーズ〉にいるのが確認できました。
わたしは、駿河さんのスマホをキッチンのシンクの縁で殴って、液晶画面をへし折りました。操作不能になっていることを確認して、冷蔵庫の真横に投げつけておきました。
鍵掛けに、206号室の鍵が下がっているのを確認しました。
内ポケットからデンタルフロスの容器を出し、糸を206号室の玄関のサムターンに軽く巻きつけました。施錠の方向を確認し、糸を輪状に結んで、ドア下端に垂らします。わたしは206号室の外に出ました。小さなサボテンの植木鉢の横に、糸がはみ出しています。そっと糸を引きました。施錠音を確認したあと、糸を切って、慎重に引きずりだし、室外まで回収しました。これで、鍵を持たずに施錠できたことになります。わたしは駿河さんに合鍵を返したはずです。前に見たスマホ越しの会話によれば、佐々木悟郎は彼女から合鍵をすでにせしめているようでした。
隣の207号室に帰宅すると、娘の鏡花が駆け寄ってきました。ワイシャツとタオルを洗濯機に放り込んでスイッチを入れるあいだも、大声で話しかけてきました。
「どんどんした! どんどんしてた!」
「どんどんしてたねえ」
「今日は遊びに行かないの?」
「約束あったでしょ。覚えてる?」
「なんだっけ? 約束なんだっけ?」
「いたずら電話をかけるんでしょ!」
「そうだった!」
「メモは持ってる?」
娘は、居間のテーブルから、わたしのメモを持ってきました。
「大丈夫だよ。たくさん練習したから」
「まず、どうするんだっけ?」
「午後1時になったら」椅子にのって、鏡花が受話器をとりました。「電話をかけます」
「ほんとに? ほんとにここ?」
「ちがった!」
「ちがったねえ」
「やすらぎ荘の駐車場に行って、公衆電話でメモの番号にかけます」
「どこに?」
「〈ストーナーズ〉です。店長の佐々木さんが出ます」
「それから?」
「鏡花は、おとなりさんの、駿河菜穂さんの声真似をします。『だいじなようじがあるから、江波灯鳥にかわってください』それで、パパに電話をかわります」
「電話が終わったら?」
「メモをシュレッダーでこわします」
「誰かに、いたずら電話について聞かれたら?」
「忘れましたっていいます」
「忘れましたじゃなくて、知りません、にしようか」
「知りませんっていいます!」
「そうだよね。知らないんだよね。じゃあパパ、出かけてくるからね」
12時45分、わたしは〈ストーナーズ〉に入りました。ドアベルにふり返った佐々木悟郎は、露骨に嫌そうな顔をしていました。カウンター席で、キャラメルマキアートを頼みました。
「僕に用事でも?」さっそく因縁をつけてきました。
「君はいつも不機嫌ですね。それでは女の子に信頼されませんよ?」
「はあ」彼はわざとらしく、わたしの手前を拭くのでした。
1時ちょうどに、壁掛け電話が鳴りました。
佐々木は顔をしかめて、受話器を渡してきました。
「わたしに? 誰からですか?」
「駿河菜穂さんからです」素晴らしい娘を育てたものです!
「ああ、やすらぎ荘のお隣さんだ。どうしてここがわかったのかな。そうだ、彼女にこの店を紹介されたんですよ。店主が素敵な方だって――」受話器をもって、「もしもし?」
「パパ?」
「うん。そうだよ」
「うまくいった! じゃ、切っていい?」
「うん」
電話は切れましたが、しばらく演技が必要でした。
「えっ! どうしてですか? そんな――早まらないでください! もしもし? もしもし!」
「何事ですか?」
「駿河さん、気が動転しているようです」受話器を返しながら。「いきなり、自殺するって言いはじめて……わたしのせいだって、因縁をつけてきました」
「なにか心当たりでも?」
「まさか! 言いがかりもいいところですよ。ちょっと、様子を確認しにいってみます」
「僕も行きますよ」わたしを睨んで、「どうせ閑古鳥ですから」
車中はずっと無言でした。
佐々木の運転で、やすらぎ荘に駆け戻りました。
206号室のドア前で、佐々木はサボテンの植木鉢の下を漁りました。
「いったいなにを?」
「合鍵を入れていたような……」
思わず、心臓が縮み上がりました。いったいどうして、わたしがこんな思いをさせられないといけないのでしょう? 誰でも入れる状態だとまずいのです。言うまでもなく、佐々木だけが鍵を持っているのが最良のシナリオですから。ですが、そこに鍵は見当たらないようでした。
やがて、佐々木は財布をあけて、小銭入れから合鍵を出しました。わたしに見られるのを怖れているようでした。合鍵を持っている関係だと知られたくなかったのかもしれません。「菜穂! 大丈夫か?」この粗暴な言葉遣い! やはり女性を蔑視しているのでしょうね。下衆男の典型です。佐々木のあとをついて、わたしも部屋に踏み入りました。当然ながら、静まり返っています。
佐々木はついに、居間を覗きました。
「変だな」彼が言いました。「誰もいない」
「いない?」
わたしも、そこを見ました。
扇風機が首をふっていました。
延長コードが、コンセントに接続されて。
カーテンレールには、なにもぶら下がっていませんでした。ただ、ほんの少しだけ、金属の骨格が水平から傾いでいるのがわかりました。
駿河菜穂の首吊り死体は、忽然と消えていたのです。
やわらかな紙面が波打っていました。佐々木悟郎が、座卓の手紙に気づきました。
――――――――
わたしは月水町に引っ越すので、今日でお別れです
月水町は、きれいで楽しい町です
もう会うことはないでしょう
さようなら
――――――――
*
あいにくの雨で、東原駅前のUFO型ステージで開催予定だった〈さがりんと仲間たち〉のキャラクターショーは中止になりましたが、鏡花は黄色いカッパを空へぴょんぴょん近づけて、びしょ濡れになって駆け回ることのほうがずっと楽しいみたいでした。子供は、自分が疲れる事実と死ぬ可能性を信じていない動き方をして、気絶するように眠ります。鏡花の冷えた体をおぶって駐車場まで歩くとき、かよわい命を自分の力が支えている事実を噛みしめるとき、わたしは途方もない幸福を感じました。近年の父親は無責任な男ばかりです。ソファでふんぞり返って、皿洗いの音を聞きながら呆けた顔でテレビを見ているだなんて、何のために結婚したのかわかりません。この手の連中が、中身のないワイドショーに影響されて、モテないネット右翼になるのでしょうね。愛する家族を守る気概をみせてこそ、一家の長となる資格があるのではないでしょうか? この日、深雪はずっと不機嫌でした。体調が気圧に影響されやすいのかもしれません。本日は、深雪と恋人になって五周年の記念日でした(この種の記念日を忘れるような男は人間の屑だと思っています)。だから、そのプレゼントとして今日の予定を企画して、せっかく大事な仕事を休んで、家族が一緒になれる時間を作ってやったのに、なにが不満なのでしょう? わたしが命をかける思いで必死に守っている、子供と過ごすかけがえのない時間を、深雪はなんとも思っていないようなのです。彼女と結婚するまで、こんな薄情な人間とは思いませんでした! でも、わたしには鏡花がいます。それだけが希望です。
その夜、妻を抱きました。わたしは射精したあとで急に冷たくなるような男ではありません(そうするべきではないと女性ファッション誌に書かれているのです)。背中を撫でながら、彼女の吐息が寝息に変わるまで待ちました。藍色の安らかな時間のなかで、わたしは心底から、妻を愛していることに気づきました。駿河菜穂を失ってから、そう確信する日々が増えました。彼女には、長いこと騙されていたのです……どうしてこんな簡単なことに気づけなかったのでしょう……確かに、江波一家は完璧な家族ではないかもしれません。が、家族は家族です。関係は冷え切っているし、妻は子供もわたしも愛していません。それでも、わたしは家族を守らなければいけません。
駿河菜穂――悪魔のような女です。
わたしは彼女から逃れることができるのでしょうか?
さざなみのような音に誘われて、居間に立っていました。真夜中の底をくり抜くように、つけっぱなしのテレビ画面が青白く灯っていました。なんだか夢心地で、いつからそれを見ているのかわかりません。彼女が、まっすぐわたしを見ていました。意味を脱色された言葉が騒いでいました。駿河菜穂は、相変わらず死んでいましたが、以前とは様子が違いました。報道カメラが画角をずらして、春海川の下流で土手に漂着している死体を映しました。ぜんぶで七つありました。首吊り後に密室から消えた駿河菜穂は、やすらぎ荘から7キロも離れた春海川で発見されたのです。
その後、事件の報道は奇妙な展開をみせました。
まず謎めいていたことは、検死の結果、死体には基本的に大きな外傷が見当たらなかったことです。もちろん、駿河菜穂の死体だけは、首に索条痕が残されていましたが、それ以外の六人は、ほとんど病死か老衰など、自然死としか思えない状態だったそうです。
これだけの死体がまとめて発見されて、殺人事件がただ一つとは奇怪です。
いったい、七人になにが起こったのでしょう?
春海川に浮かび上がった死体の身元が判明していくにつれ、新たな謎が浮上してきました。「綾藤呂翁」という、七年前の失踪者が最初に警察の発表した名前でした。この失踪事件はかつて東原新報の二面に載っていたのですが、わたしはこの記事を失念していました。当時から、ちょっとした都市伝説になっていたようです。綾藤氏の遺した手紙は、妙に意味ありげでしたから。
――――――――
わたしは月水町に引っ越すので、今日でお別れです
月水町は、きれいで楽しい町です
もう会うことはないでしょう
さようなら
――――――――
駿河菜穂が遺していった手紙と、まったく同様の文面だったのです。
警察は、残りの六名の身元も調査しました。その結果、他の死体もすべて、東原町の失踪者だったことが判明しました。そして、失踪者の遺族たちはみな、しわくちゃになった手紙を大事に保管していました。すべてが同一の文面でした。失踪者たちの遺した“月水町に引っ越す”という言葉を真に受けている遺族もいれば、途方に暮れた表情で、信じがたい話だと答える遺族もいました。
月水町は、世界のどこにも存在しない町でした。
*
わたしは、この七人に共通項があるのか調べてみることにしました。幸いにも、ニュースで名前が出た「楠樹」という遺族のひとりが、わたしの会社に面接にきたことがあり、人事部に問い合わせることで、個人情報を得ることができました。半匿名のフェイスブックに紐付けされたツイッターアカウントに飛ぶと、〈地上の楽園〉というユーザー名の鍵アカだけをフォローしています。
……………………
地上の楽園(@Heaven*on*Earth)
孤独死遺族・失踪遺族のための会/連絡はDMで
場所:東原バプテスト教会
……………………
確かに、家族が失踪してしまったとき、最後に頼れるのは宗教ぐらいのものかもしれません。ですが、ここであることに気づきました。過去ツイを漁ると、楠樹氏が〈地上の楽園〉に言及しているのが、報道による彼の妻の失踪した日付の、二日前だったのです。妻が失踪してから相談するのならわかりますが、失踪する前に相談するとは、いったい……? この〈地上の楽園〉に言及しているアカウントを遡ると、少なくとも三人が、春海川で発見された死者たちの遺族だと同定できました。断片的な発言から文脈を想像する限りでは、ある時期から秘密主義を徹底する必要があると気づいたらしく、途中から鍵アカウントにして、連絡方法もリプライからDMに変更した模様です。
そもそも、この事件は最初から、どこかおかしいのです。死体が発見された今になって、一挙に手紙が出てくるとは……? 家族や知人が失踪したなら、必死で捜索するのが普通です。駿河菜穂を除いても、残りの六人のうち、たったひとりしか手紙が公表されていなかったのは不自然です。遺族たちは情報を求めて駆けずり回って、月水町に関する奇妙な手紙を遺した人物が、複数いたことを発見していなければおかしいでしょう。別々の遺族たちが、口裏を合わせて、失踪者を隠蔽でもしていなければ、絶対にこんなことは起きないはずです。この事件は、一種の壮大な計画殺人だったのでしょうか? しかし、そう考えると、死体に外傷がなかった事実が奇妙に思えてきます。
わたしは休日に、東原バプテスト教会を訪れることにしました。実社会というのは意外にセキュリティが甘く、簡単に手がかりが見つかりました。いらすとやの天使のフリー素材が使われた〈地上の楽園〉のパンフレットが、無造作に置かれているのです。定例会は毎月の第三土曜日、主催者はここの神父の九鬼悠遠という人物でした。たまたまその日は第三土曜日でしたが、定例会の時刻は過ぎてしまっているようでした。ですが、教会堂の中で行われている説教を覗いてみると、いくつか見覚えのある顔が見つかりました。報道で見た死者たちの遺族が、そこに集まっているようでした。
異様な顔ぶれもありました。漆黒のスーツに純白のネクタイをぶら下げた、淀んだ目をした長髪の人物が、しかめっ面に限りなく近い無表情で、長椅子のなかで足を組んで、九鬼悠遠の話を聞いていました。見た目だけでは男か女かわかりませんが、妖艶な気迫を感じさせました。
その人物が、唐突に首を曲げると、
「江波灯鳥さんですね?」
「どうして、わたしの名前を?」
名刺を渡してきました。無骨な明朝体で、「調査人/黒瀧榧」とだけ書かれています。どこに所属する何者だか、さっぱりわからないままですが、黒瀧氏はすべてを説明したような顔をして、また講壇に意識を向けました。神父の話が終わると、黒瀧氏は立ち上がりました。
「春海川の事件を調べています。あなたはやすらぎ荘の住人で、駿河菜穂さんの隣人ですね。例の失踪事件の第一発見者のひとりでもある。間違いありませんか?」
「ええ。実はわたしも、今回の事件は妙だと……」
「ついてきてください」黒瀧氏は目線で合図しました。
やがて、黄緑色のセーターを着た女性を追っていることがわかりました。その女性が渡り廊下から建物のなかに曲がると、黒瀧氏は屋外から追って、ある窓の附近で壁際に背をもたれました。内部でドアが開いて、その人物が、部屋の奥にいる九鬼悠遠に挨拶しました。来訪者は、コジマと名乗りました。知人に〈地上の楽園〉を紹介されて、自分も定例会に参加したいのですが、云々。
唐突に、九鬼悠遠が聞きました。
「あなたは、神を信じていますか?」
「はい」
「正直に答えてください。私に気を遣わないで、あなたの正直な気持ちを聞かせてください。これは重要な質問なのです。あなたは本当に、神を信じていますか?」
長い沈黙がありました。
「信じています」
再び沈黙。
やがて、九鬼悠遠が言いました。
「まことに残念ながら、あなたは〈地上の楽園〉に入会することができません。同種の自助会に紹介文を書きますから、そちらを訪ねてください」
「これではっきりした」黒瀧氏がつぶやきました。
コジマ氏と入れ違いに、わたしたちは事務室に入りました。
自己紹介を済ませると、黒瀧氏が切り出しました。
「率直に聞きます。綾藤呂翁・大宮轟・賀東健一・楠樹智絵・夏瓦風花・涼宮昌宏・駿河菜穂――この七人に共通することをご存知ですか?」
「誰ですか、その人たちは」
「つい最近、春海川の下流で発見された七人の死者たちです。もちろん、あなたが知らないわけはありません。駿河氏を除き、全員の遺族が、あなた主催の〈地上の楽園〉に入っているからです。この七人の共通項は、全員が無神論者ということです。少なくとも、家族もろとも無宗教者だ。その生涯において、これまで教会に関わったことは一度もなかった。神父であるあなたが、無神論者の家族を寄せ集めて、いったい何をやっているのか、私の依頼人は興味津々というわけです」
「説明する義務はないでしょう?」
「だが、通報することはできる。警察はまだ、死者たちと会の繋がりに気づいていません。依頼人のわが主さまは、いったい何年生きているんだか知りませんが、ひどくお転婆な方でしてね。昔ながらの謎々が好きなだけなんですよ。こちらも別に、大事にするのは望んでいません。そちらが真相を話していただければ、内々で解決します。それだけは約束いたしましょう」
「なるほど。ところで、あなたは神を信じていますか?」
「信仰とは、思考の飛躍ではなく、思考の責任であるべきです。なにも信じない者は、なにもかも信じる者と同様、なにかを学ぶことがありません」
「それで?」
「私の信仰の対象は、この世の知識です。神に関する知識と呼びうるものには、未だにお目にかかったことがありません」
九鬼悠遠が立ち上がりました。
「いいでしょう。真実を説明します」
*
わたしたちは懐中電灯を手渡されました。東原バプテスト教会の物置倉庫は、床下の収納扉らしきものが、踏み桟の煤けた梯子で地下まで繋がっていました。鼻のひん曲がる臭いがしました。奥底を踏んだとき、茶色の水が小刻みな波紋の筋をはじけさせて、暗闇の向こうへ駆けていきました。反響する足音、信じられないほどひんやりした長い無言のなかを、三人が進軍しました。
九鬼悠遠が、灰色の壁のまえで立ちどまりました。下水道の地下トンネルのコンクリート壁に、ひとりの青年が横たわっていました。呼吸はありませんでした。
「新入りですか?」黒瀧榧が聞きました。
「そんなところです。先日の大雨で、地下水路が鉄砲水にやられて、ここに納まっていた死体のほとんどが春海川まで押し流されてしまいました。会員には申し訳ないことをしました」
「遺族たちは、ここに埋めてもらいに来るわけですね」
「あなたはもう、真相がわかっているのではないですか?」
「こんな冗談を思い出しましたよ。骨董屋の玄関に〈骨董売ります〉と看板が置かれている。だが、裏口を覗くと〈ガラクタ買います〉の看板があるんです」黒瀧榧がいいました。「地上の楽園――孤独死遺族・失踪遺族のための会。その会員たちは、久々に訪れた家で、家族の死体を見つける。孤独死遺族として教会の扉を叩いた遺族たちは、扉を出るときには、失踪遺族になっているわけですね。その仲介を行っているのがあなただ。存在しない町へ引っ越す手紙を書いて、こんなところに死体を隠している。不思議な商売です。そんなに旨味があるのですか」
「別に儲かりませんよ。ただ働きの慈善事業です」
「慈善? あなたの倫理には反しないのですか?」
「もちろん」
「てっきり遺族が、身内から孤独死者が出るのを恥じているのだと思っていましたが」
「そんなことなら引き受けたりしません。〈地上の楽園〉の発足は今から七年前、綾藤遙華さんが教会に来たときでした。亡くなった綾藤呂翁さんの姉にあたる方です。彼女は途方に暮れていました。あなたは、日本の葬儀代の高さをご存知ですか? どの葬儀屋に頼んでも、百万円や二百万円はざらですよ。いまどき、誰もが払える額ではありません。しかし、死から逃れられる者は誰ひとりいないのです。さらに、そんな儀式は、たいていは遺族たちが望んでいないものばかりです。綾藤遙華さんはキリスト教の信者ではありませんでしたが、ここなら安く済むんじゃないかと、一縷の望みをかけてやってきたわけです。が、当教会でも費用面の事情はそう変わりません。
わたしは心が痛みました。宗教は、人を救うことがその本義であるはずです。ですが、この現状はどうでしょう? 無宗教者が、自分たちが信じてすらいない宗教のために、多額の金をかけて、ときには借金までして、身内を見送らなければならないとは――教会や寺社が、死人に群がるハイエナのようではありませんか。そんなひどい苦痛を強制するなど、絶対にあってはならないことです。神を信じない者、死後の世界を信じない人々も、ひとの死を悼む気持ちは同じはずです。
わたしは無神論者のための宗教を作っているのです。その者たちにとって、死後の世界は、天国や地獄などの形而上的な場所ではなく、現世のどこかでなければなりません」
「それが、月水町というわけですか」黒瀧榧がいいました。
「綾藤呂翁さんは小説を書いていました。月水町という、架空の町が舞台の連作短編です。地道に公募に送っていましたが、ついに世に出ることはありませんでした。“わたしは月水町に引っ越すので、今日でお別れです”という言葉は、綾藤氏が最後に遺した手紙なんです。わたしは、それを複製しているだけですよ。もちろん〈地上の楽園〉の会員たちは、死者がどこに埋葬されているのか、本当は知っています。でも、月水町に引っ越したという作り話を、そうと知りつつ自然に受け入れています。死後の世界を信じない者も、慰めを求めています。人間には、ひとの死を受容する心の居場所が必要です。それが必ずしも宗教に基づく理由はないはずです。ご理解いただけますかね?」
教会からの帰路、黒瀧榧を追いかけました。あの神父をどう思うか聞いてみたくなったのです。ついでに、連絡先ぐらいは聞き出しておこうと思いました。性別がわからないにしても、美人なのは間違いないし、あんな名刺ではなにもわかりませんからね。
「黒瀧さんは、これからどうするんですか?」
「どうするのかって? もちろん、通報するんです」
「通報?!」わたしは驚愕しました。「神父の話に、感銘を受けなかったのですか?」
「葬儀代は安くなるべきですね。あるいは賃金を上げるべきです。いずれにせよ、公営の安い葬儀場が作られるべきでしょう。日本の葬儀に関する政策といえば、ひどい低賃金でひとまず精神を破壊しておいて、黄色い線の外側に飛び込ませるぐらいのものですから。しかし、問題はそこではありません。神父の話を真に受けたんですか? 彼のしていることは、非合法な死体遺棄ですよ。ひとの死因は法の下、適切に調べられなければなりません。九鬼悠遠は無意識のうちに、死者の尊厳を選別しています。その資格が自分にあると思い始めています。彼は死に取り憑かれているだけですよ」
「ですが、九鬼さんは救いをもたらしているんじゃないですか? どうしてあなたに、彼の行為を否定する資格があるんです? 遺族たちは幸せそうではありませんか!」
ふり返った黒瀧榧は、わたしを見据えました。
「駿河菜穂はどうなるんです?」
「駿河菜穂?」
「神父はすでに、最後の一線を踏み越えました。彼はすでに、最低でも、自殺の隠蔽に加担しています。それどころか、すでに誰かの殺人に加担しているかもしれません。駿河菜穂は殺されたのかもしれないんです。あなたには、心当たりがあるんじゃないですか?」
「いったい、なんの話だか……」
「本当ですか?」
「確かに、ニュースで見ましたよ」わたしは慎重に言葉を選びました。「駿河さんだけ、首に索条痕があったんですよね。だからといって、殺人とは限らないじゃないですか」
「どうやって部屋に入ったんだと思います?」
「……なんの話ですか?」
「おそらく、神父は駿河菜穂の電話を受けて、206号室に呼ばれたはずです。そして、部屋で首吊り死体を発見する。その後、例の手紙をおいて、死体を回収し、部屋を掃除した――でも、私が知人の宇賀刑事から聞いた話によれば、ある二人組がアパートで手紙を発見したとき、部屋の鍵は閉まっていたはずなんですよね。ドアは施錠されていた。鍵掛けに、部屋の鍵も下がっていた。そこに九鬼悠遠が出入りできたということは? おそらく、ドア前にある植木鉢の下には、ふたつめの合鍵が存在したはずです。最初に鍵を使った駿河さんの彼氏のものでない、第二の合鍵。駿河菜穂は一人暮らしで、いまの彼氏とはまだ同棲していないのに、二本目の合鍵があるのです。私は調査人の仕事が長いですから、これだけで、だんだん愛人の影が見えてくるわけです。別の彼氏に乗り換えたが、鍵を返すかどうかまだ迷っている、微妙な距離感の情夫の存在です。どう思います?」
「あなたは作家になったほうがいいですよ」
「そんなクリシェを使わないでください。小説にならなくなります。私の第二の疑問は、どうして駿河菜穂のスマホが、あんなに念入りに破壊されていたのかです。冷蔵庫の壁に叩きつけたのを装っていますが、明らかに真っ二つにへし折れていました」
「首吊り自殺する前でしょう。ヒステリーになっていたんじゃないですか」
「その直前、彼女は九鬼悠遠に電話しているんですよ。大事な連絡です。どうなるかは直前まで気になるはずでしょう。しかも、わざわざスマホを壊したあとで、彼女はやすらぎ荘の公衆電話から〈ストーナーズ〉まで電話をかけたことになっています。この点は、警察がきちんと記録を残しているんですよ。宇賀刑事でさえ、妙な話だと思ったんでしょうね。電話をかけて、電話を破壊して、別の面倒な方法で電話をかける。なんだか神秘的なぐらい変です。まったく筋が通りませんよ。
ですが、筋が通る説明もあります。
まず、この事件が殺人だったと仮定してみましょう。
首を絞めたあと、このまま死体を現場に放置していくのはまずい。殺人を隠蔽するには、首吊り自殺に偽装しておきたいところです。そうなると、犯人にはアリバイが欲しくなります。あなたならどうしますか? 私なら、こんな方法を思いつきますね。犯行後、共犯者に頼んで、生きている駿河菜穂の声真似をした電話をかけさせます。自殺する、という伝言を残した演技をして……もちろん、その電話をすぐ隣で聞いている、便利な証人も必要です。犯人は、ついさっきまで生存していた彼女の伝言を追うという体で、証人とともに206号室に向かいます。すると、駿河菜穂が部屋で首を吊るまでのアリバイを、目撃者が証言してくれて、真犯人は安泰です(もちろんこの場合、せっかくアリバイを作ったのに死体が消えてしまったわけですから、犯人はひどく驚いたでしょうけどね)。ついでに、この証人が合鍵を持っていると、彼の犯行に見せかけやすくもなります。
しかし、ひとつ問題がありました。206号室は何らかの方法で、最終的に施錠されています。犯人の隣にいた目撃者を容疑者候補にして、こいつが怪しいと示唆するためには、当然そうするべきでしょう。ですが、この場合、犯人は共犯者に、駿河菜穂のスマホで〈ストーナーズ〉に電話をかけさせるわけにいかなくなります。通話後、室内にスマホを安全に戻す方法がありませんから。
だから、犯人は公衆電話で〈ストーナーズ〉に電話をかけさせたことになります。しかし、それもまた問題があります。どうして駿河菜穂は、スマホを持っているのに、わざわざ公衆電話で電話をかけたのでしょう? 警察はそこを疑問に思うはずです。だから、犯人は事前にスマホを破壊しておく必要があったわけです。苛立って冷蔵庫の壁に投げつけたかのように偽装して。でも、明らかに破壊しすぎていましたね。彼女のスマホには、犯人にとって調べられると困る情報があったのかもしれません。ここで私は、愛人の影、第二の合鍵……という言葉を、また思い出すわけです。たとえば、この愛人が妻子持ちだったとしたら、警察に彼女との関係を嗅ぎ回られたくないでしょう。
もちろん、ここまではすべて仮説です。
さしあたりは、なんの証拠もありません。
私はやすらぎ荘の大家である大柳さんに確認をとり、監視カメラを確認しました。あなたはご存知ないかもしれませんが、あそこの電話ボックス附近には、見えにくい暗がりに、カメラが設置されているんですよ。あのアパートの怪事件は一度や二度ではありませんからね。
問題の午後1時――電話ボックス内には、確かに、〈ストーナーズ〉に電話をかけている、駿河菜穂を名乗っていた人物の姿がありました。でも、彼女が自殺するだなんて、こんなに悲しい話がありますかね? 駿河菜穂より、ずっと小さな子に見えましたよ」
黒瀧榧は、言葉を切りました。
「あなたは、娘を愛していますか?」
「はい」
「『通報する』というのは、あなたに対して言ったのです、江波灯鳥さん。でも、しばらく猶予を与えましょう。私は、わが主さまとの優雅なディナーの予定がありますから。さようなら。あなたの顔は二度と見たくありません」
*
空が茜色に染まりました。バス停のベンチに腰掛けた途端、わたしは自分がもうどこにも行けないことがわかりました。家族のために、これほど身を粉にして努力しているわたしに、どうしてこんな理不尽な仕打ちが与えられるのでしょう? つらいことばかりの人生です。信頼した人には、いつも裏切られてばかり……自分があまりにも惨めで、すっかり嫌になってしまいました。こめかみを絞り上げる頭痛がありました。自分が、泣いていることに気づきました。子供のときはいつも、この痛みのなかで生きてきました。みんな、毎日のようにわたしを責めていました。人間を追い詰める、心無いおそろしい言葉ばかり使って、誰もわたしの話を聞いてくれませんでした。
ようやく人生が楽しくなってきたのに。
また、振り出しに戻ってしまいました。
わたしが天国に行けなかったら、いったい誰が天国に行けるというのでしょう? でも、この自分の有様を見ていればわかります。神様はきっと、どこにもいないのです。だから、死後の世界も存在しません。人間はただの動物で、死んだら意識が消えて、それっきりです。
人間は死んだらどこにもいけません。
天国も、地獄も、存在しないのです……。
「いいえ。地獄はありますよ」
ふいに音楽が止みました。
隣にいた少年が、リコーダーからくちびるを外し、こちらを見上げました。
次の瞬間、噴射音がして、バスが扉を開けつつ滑り込んできました。吐き出される町民の人列が横切る合間に、少年は二言目をわたしに言い置くと、ランドセルを揺らし、給食白衣の入った袋を蹴りながら、すぐに乗り込みました。
「実は、ここが地獄なんです。だから、ここで死んだら、どこにも行けません」
バスが通過すると、道路の斜向いに警察車両が見えました。二人組の片割れがわたしに気づいて、煙草を放り捨て、あごをしゃくるように動かしました。